昨日はちょうど飛鳥時代の復習でした。奈良に住んでいると藤原京や平城京、法隆寺といった歴史的建造物があちこちにあるので、「橿原とか桜井とか」と言ってもピンときやすくていいですね。豪族の話をする際も、葛城氏や平郡氏などの例が挙げやすく土地をイメージしながら説明出来るので随分と聞きやすいんじゃないかと思います。この時ばかりは奈良で塾をしていて改めて良かったと感じます。笑
さて、昨日は法隆寺に関して少し話を膨らませて授業を行いました。
「法隆寺は世界最古の木造建築」というフレーズを生徒たちは覚えているのですが、世界最古の木造建築が今なお残っているのはなんで?と考えることで、そこには宮大工さんたちの高度な技術や考えが浮かんできます。
当時、一体どういう技術や考えがあったのかということを、宮大工さんの視点から話をしてみました。
法隆寺に代々仕える宮大工の家系の西岡常一さんという方のお話です。
まえがきから、西岡さんは宮大工と普通の大工との違いは「心構え」と説きます。
普通の大工は家を作ってなんぼになるということが一番。しかし、宮大工は仏様に入ってもらう伽藍を作るので、作ってなんぼというわけにはいかない。儲けのことを考えていたんでは宮大工は務まらないと言います。
宮大工が民家を作ってしまうとどうしてもいくらで何日までに作り上げなければならないと考え、効率、儲けに走ってしまいます。一般の家はせいぜい50年持てば良いという設計で作られますが、宮大工の仕事は法隆寺がそうであるように1000年先、2000年先を見て行う仕事です。
日本書紀には「宮殿建築にはヒノキを使え」と書かれているそうです。当時の人はすでにヒノキが千年単位で建物を維持するにはヒノキが最善と知っていたようです。見ている視点が長い分、「どうすれば木を長く生かすことができるのか」を常に考えていたようです。ちなみに、1300年前の法隆寺の木にカンナをかけると今でもいい香りがしてくるそうです。
そうすると、補修のことも考えなくてはなりません。法隆寺を建てると同時に隣にヒノキの木を植えるそうです。2000年経って法隆寺を修復する際、その時に植えた木は樹齢2000年にまで育つ。木を育て、木を切る。循環型社会のことを既に飛鳥時代から考えていたようです。
こういう話を聞くとコンビニでの買い物袋をなくすという程度のことでエコと呼んでいる状況にスケール感の違いを感じてしまいますね。
また、「堂塔建立の用材は木を買わず山を買え」。「木は生育の方位のままに使え」という口伝があるそうです。山の南側の木は細いが強い、北側の木は太いけれども柔らかい、陰で育った木は弱いというように、生育の場所によって木にも性質がある。山で木を見たら、これはこういう木やからあそこに使おう。これは右にねじれているから、左ねじれのあの木と組み合わせたらいいということを考える。これが棟梁にとって大事な仕事だったそうです。
現在では木の性格が出ないように合板を使うそうですが、合板だとどうしても長く持たないそうです。
木の癖というのは悪いものではなく使い方次第なんだと言います。癖のあるものを使うのは厄介ですが、うまく使ったらその方がいいということがある。人間と同じで、癖の強いやつほど命も強く、癖のない素直な木は弱い。そして力も弱いし耐用年数も短いと言います。この辺りは組織人事にもつながる話のようにも聞こえてきます。
さらに、中国には現存する最大の木造建築「仏宮寺」があるそうです。中国で作られたこのお寺は軒が小さかったそうです。これは中国では雨が少なく石造りやレンガ作りのため、軒が小さくて済んだからだそうです。
👉wikipediaより。

法隆寺はこれを元に作られるのですが、軒の長さについては仏宮寺より4倍ほど長いそうです。軒を少し長くするだけでも非常に大変で屋根が重くなる。そしてそれを支える垂木も長くなる。その重さをどうやって支えるかという構造計算が非常に緻密で大変な事だそうです。一気に4倍なので当時の技術力が相当高かったと振り返っています。
軒の長さを長くするのには、雨が多く湿気の強い日本の風土にあうようにするためです。軒を長くして、雨を防ぎ、建物を載せる基壇を高くして、地面からの湿気を防ごうと考えたわけです。
このことからも当時の飛鳥人が自国の風土を理解し、高い建築技術を持っていたことが分かります。そのおかげで建物が現在でも存在し続けている。
こうした当時の宮大工たちの思想や技術が背景となり、「法隆寺=世界最古の木造建築」になっているんだよという余談を挟んで授業を行いました。
もし、この西岡常一さんに興味を抱いた方はこちらを読まれてみてください。