駿台や河合塾、代々木ゼミナールなども見に行ったが費用が高すぎて断念。自力で何とかできる予備校が無いかと歩き回ったら、あった。それが「大阪予備校」。通称「だいよび」だ。
難波にあったので、南海高野線に乗って家から40分くらいだった。
特待生用の試験に受かれば1年間10万円で入学させてくれる制度があった。
試験を受けたら合格した。またしても運が良い。
通常授業が始まるとあちこちの高校出身者との出会いがあった。
三国ヶ丘高校、生野高校、天王寺高校、岸和田高校、四天王寺高校、そして圧倒的多数を占めていたのは清風南海の連中だった。大阪の南にいた自分が知っているのはせいぜい生野高校くらいなもので、三国ヶ丘と天王寺はどちらが上とか全く知らなかった。学区トップ校であることくらいが少し分かる程度。(奈良に来て「畝傍」なんて始めて知った。読み方さえ知らなかった。奈良高校という名前だから奈良では一番優秀なのかなくらいの理解。本当に失礼な話だが、大阪の人間にとって奈良の学校なんて東大寺、西大和くらいしか聞いたことが無かった。今奈良にいるので双方の見方が分かるが、隣の県の高校レベルなんて誰も知らない。だからこそ、共通認識のある大学が指標になるんだと思う。)
唯一知っていたのは清風南海。中学受験の時に落ちた学校だ。
あの時合格した奴と、あの時不合格になった俺が今一緒の教室にいる。
聞けば、四天王寺や清風南海など高偏差値高校は学生証を見せるだけで、試験を受けずとも特待制度が得られていたらしい。学校によるパス(贔屓)がそんなところにあるのかと初めて知った。美味しいルートがあるもんだなと思った。
祖父から常々世の中、そういった隠れルートが多いと聞いていた。祖父の働く商社は入社時点で出世コースを歩めるのか、そうでないコースかが決まるそうで、出世コース(役員)を歩む場合は指導担当に有能な先輩社員が付いて育成する仕組みがあったそうだ。入社した日から社としての育成が異なることを聞かされていた。
祖父の世界の話が特別だと思っていたが、現実に自分の周りでもその事実の一端を知る。貧乏から抜け出すには、上に行かねばならない。
現役時代の鬼門は国語だった。
現役時代のセンター試験の国語は200点中の84点だったのを今でも覚えている。
ショックが大きすぎて胃に穴が開きそうになった。当時は新聞を見ながら試験翌日に答え合わせをするのだが、バツ、バツ。
もうこの時点で胃がキリキリ。さらに目を下に送るとバツ、バツ。
あー、もう死にそう。死にたい。と思ったことだけ覚えている。それ以降は記憶がない。
いざ予備校の授業が始まったらチンプンカンプンで全くついていけない。SVOC?何それ?高校3年間、はや弁と睡眠と大親友になったツケがここで回ってくる。
高校3年間は部活と睡眠のために学校に行っているようなものだった。朝の配達のおかげで昼以降の授業はほとんど記憶がない。中学時代に流したあの涙はいつしか、大量のよだれとなって流れた。
そんな状況だったので、授業には出ず、朝から夕方まで予備校の自習室に入って参考書と問題集をイチから勉強し直すことに決めた。3年間のつけを1年間で返さないといけないと思うと俺には時間がなかった。
そう思うと、わざわざ交通費を払って難波まで往復1時間半程度毎日使うのはもったいなく感じ、5月のGW明けには予備校には行かなくなっていた。
宅浪の開始。
朝6時に起きて、夜は24時まで起きている時間の殆どを勉強に捧げた。一歩も家から出ない。俺は浪人生だから、今のうちにアドバンテージを作らないと優秀な現役生が部活を引退した後に追い上げてくる。常に恐怖感との戦いだった。だから突き放すには夏までが勝負と考えていた。
今であればいつに何を勉強すれば良いなどYouTubeが教えてくれるが、当時は情報が限られていて、いつまでに何を完成させて、いつからセンター対策をやって、みたいな受験計画を指南してくれる人がいなかった。だから、大失敗しないために、弱点の国語の対策を1学期から詰め込んでいた。
今ならこんな方法は取らないと思う。しかし、当時はそれが勝ち筋だと本気で信じていた。
一生のうちで吐くほど勉強したと言えるのは大学受験だ。(いや、嘘。実はこれ以上に勉強する時期が32歳で来る。大学院。ただ、当時はこの時期が人生のピークと思っていた。)
受験直前期、11月くらいに部屋のベットを捨てた。
当時古文に吉野先生というのがいて、暴走族上がりの人で、「試験会場でぶっ倒れて死ぬくらいにやれ!」と熱い言葉で語っていた。バカな俺はそれを真に受けて、俺も試験会場で精も魂も尽き果てて、死んでやる!と本気で思っていた。
それ以降は毎日机の上で寝た。机が硬いので深く寝られず、すぐに起きてしまう。冬だから寒いので肩に毛布をかけて寝る。また痛くて起きるの繰り返し。
どうしても体がしんどいときは玄関前の冷たい廊下の上で寝た。床が固く、寝心地が悪い。寝返りを打てば、寒さで目を覚ます。
ある時、事件が起きた。6時間も寝てしまった。平均3時間睡眠だったので、二日分寝たことになる。床で毛布を被って寝たのが原因だった。それ以降、床で寝る時は掛け布団なし。毛布なし。薄着で寝ることにした。
年末だったか、予備校の担任に呼ばれて予備校に向かった。
久々に乗った満員電車が苦しくて酔ってしまった。吊り革を持つ手が震え、難波に到着するやいなや南口のトイレに駆け込み、吐く、吐く、吐く。これ以上ないくらいに吐いた。
もう怖くて、電車には乗れない。体力は限界だった。
年が明けて、センター試験。手を振るわせながら恐怖の国語に向かう。しかし、恐怖には勝てなかった。
現役時代を下回る80点。この時ばかりは神様を恨んだ。努力すれば叶うとか、出来るようになるとか。そんなのは嘘だ。
恐怖の国語と書いたように、俺は国語の受験を怖がっていた。それ以前の模試では200点中190点くらい取れるようになっていたが、どれだけ採ってもこれは本番ではない。あくまで模試というのが心の片隅にあった。最後の最後まで不安が拭い切れなかった。
試験が始まったら紙が白く見えて、文字が見えなくなった。気が付けば同じ行を2回も読んでいた。「あっ。これはダメだ、落ち着け、落ち着け。」と言い聞かれば言い聞かせるほど、ますます本文へののめりこみを邪魔した。何とかしようと思えば思うほど、本文から意識が離れた。試験中に幽体離脱したくらいに内容から遠ざかっていった。
どれだけ練習しても、自分には勝てなかったのだ。
心が弱かったのだ。模試は模試。どこか余裕がある。しかし、本番と思うだけで一切の余裕が心から消えた。
そう。どれだけ時間をかけても、心までは鍛えられていなかったのだ。これは本番にならないと分からないことだった。
人生をかけて挑んだ1年間は現役時代よりも下回るという結果で幕を閉じた。
(続く)