最近では小学校高学年の宿題は「自学1時間」というように自分の興味のある課題に取り組ませる流れですね。私はこの状況をあまり好ましく思っていません。
理由① 大半の子にとっては「写す」ことになり、本来の「調べる」という目的からずれる点。
学校の宿題をやっている様子を見ている限り、社会の教科書を写す生徒が多いように思います。
本来の学習は「なんで?」を突き詰めるものですが、検索技術も未熟な状態では調べることにも限界があります。
思っているほど深い学習には辿りつけません。
例えば「京ます」について調べたとしましょう。
その絵や実際の大きさを写すことぐらいで、「なぜそれが生まれたのか」。それができる以前の状況がどうだったのか。それが生まれたことで年貢の取り立てがどう変わったのか。
そういう方法(お作法)を誰も教えない状態での調べ学習というのは「なんちゃって調査」になりがちです。
調査方法などある程度指導を受けた状況であれば効果が出るかもしれません。
しかし、これとて一部の優秀な生徒ができるだけでその他大勢の生徒にとっては調べ作業と化してしまうことが少なくありません。
理由② そもそも考えるための語彙量が少ないこと。
物事を深く考えるためには「言葉」が必要です。言葉を知らなければ深く考えることが出来ません。語彙量が少ない小学生の場合、その量にもやはり限界があります。
そうなのであれば中学校、高校で考える力を大きく伸びるための下地づくり。
いわゆる、「語彙強化」がやはり小学校時代に一番育むべきものではないでしょうか。
塾では国語辞書クイズで毎日辞書を引き、言葉を覚えます。また、それらを「使える語彙」へと昇華させるために毎日作文指導が入るのもこれが理由です。
かつて「語彙量が多すぎて困った・・・」という人など聞いたことがありません。あればあるだけ考える道具になるのが「語彙」です。
私個人の意見としては、読み書き計算(音読・語彙・計算)を小学校時代は重点的に扱い、今後の学習の土台を作る期間と割り切る方がベターと考えています。
その時期だけで全てを完結させる必要はないと考えています。小中高と続くわけですから、流れの中で時期に応じて強化する内容が異なって然るべきです。
中学校でもグループワーク・発表も最近の流行りですが、あれも一定レベルの人間が集まれば有効かもしれません。しかし、多くの場合はフリーライダーを生むばかりで優秀な生徒が準備不足の生徒に教えるという構図からは抜け出せず。優秀な生徒にとって大きな収穫になることは殆どないように思います。
高校でも流行りに乗って、プレゼンなどを学校方針の真ん中に据える学校もありますが、それはただの「慣れ」であり、問題について深く考えられたかとは別問題です。
結局のところ、どこまで深く新しい視点で考えられたのかが独自性だと思います。
表面だけを追いかけても何も変わりません。考えるためには「知識」という道具を頭の中に常駐させておかないと何も変えられないのではないかとふと思いましたので、書いてみました。