服部先生と私

少し長くなるが、勉強を通して広がった世界について少し話してみたいと思う。

高校1年生の時、物理の先生が新しく変わった。

聞けば、東大出身の先生であるという。

人生で初めて出会う東大生に、田舎者の私は期待に胸を膨らませていた。

初回の授業が始まった。

サービス精神とは無縁の大学の講義を聞いているような無味乾燥な授業。日増しに脱落者が増えて行き、私もその中の一人になった。東大への期待は大きく外れた。

物理で上昇することなく高校3年間が終了。

服部先生との出会いは大阪の難波にある予備校だった。

聞くところによると、大阪の天王寺高校を退官後に予備校で教鞭をとられていた。

天王寺高校といえば大阪でも、北部の北野、南部の天王寺と言われるくらいに当時でも進学校であった。

初回の授業で衝撃を受けた。

以前の授業では、この時はこの公式を使う。この時はこの公式を使う。
テーマに合わせて公式を使い分けるのが物理と思い込んでいた。

しかし、原理原則を当てはめ。
いつも同じ式から入り、鮮やかに解いて見せる。「美しい」。一番最初に立てる式は常に運動方程式から。
中2病時に周期表を見て美しいと感じて以来、2度目だった。

当時の私の美しいものはこうして入れ替わった。
1位:物理の公式
2位:周期表
3位:ロンバケの山口智子

1つの公式から広がっていく授業はまるで「千手観音」のようだった。
この頃から私は先生を「神」と呼ぶようになった。

「こんなに分かりやすい先生が、大阪のトップ校にはいるんだ」と公立トップ校の凄さに衝撃を受けた。

今でこそ大阪は公立志向が強くなっているが、私が学生の頃は地元中学校が荒れていたので、そこに通いたくない場合は私立中学に通うというのが常識だった。

地元中学の卒業式はパトカーが出動し、リアル尾崎豊の世界だった。

私立>公立の考えで育って来た私は、この時、世間知らずを叩きつけられた。公立でもこんなに凄い先生が教えているんだと。

高校時分は物理よりも化学の方が断然成績が良かった。多少の計算を除けば無機化学は暗記。有機化学はパズル。くらいに見ていた。

しかし、神の授業は仮眠とは無縁のまるでトレンディードラマを見ているようなドキドキの90分だった。

時に、70過ぎのおじいちゃんがキムタクに見えた。

当時の私は京大の理学部を志望していた。京大の理学部は入学時に学科を選ぶのではなく、入って2年生の終わりに学科を決めるので物理を選択しようと考えていた。入学前から入学後のことを一人で想像していた。

ある時、キムタクの出身校が、阪大の理学部物理学科と知る。

素粒子の単元では、特にノーベル賞受賞の湯川秀樹、長岡半太郎の話を熱っぽく語っていたことにも合点がいった。

安直な私は、阪大の理学部に行けば、こんな人がごろごろいるのかと思い。次第に阪大に興味が移っていく。

と書けば、聞こえは良いが。
結局はセンター試験で国語が大転倒。
擦り傷どころか、両足複雑骨折。心も折れた。

この時ばかりは、世界の中心で「この世から国語消えろ!」と叫んだ。

3回生になった時、素粒子の道に進むか、物性物理の道に進むか判断を迷った。

「そうだ、神に相談しに行こう。」

神は自分が「素粒子物理」に進んで研究者の道を断念し、教職についた苦い体験を打ち明けてくれた。

素粒子の世界は、優秀なほんの一握りの人の世界。その道で実力が発揮できなかった場合、残された道は教職しかないと教えてくれた。

当時先生になる気がなかった私に、先生は「物性物理の道」を強く進めてくれた。今思えば、先生の優しさだったんだと思う。

かなり前置きが長くなった。

私は間違いなく「授業」で人生が変えられた一人である。
医者のドラマが流行った年は、医学部受験生が増える。このことをを聞くと少々嬉しく思うのは私だけだろうか。

目的逆算的という考えが世間の風潮だ。しかし、受験生には「今」がすべてである。
先の不安を顧みず、興味の赴くままに人生の舵を切るのも悪くない。
若者の特権だ。
未来は、「今」にぶら下がっている。