貧しさからの脱出。勉強して損をしたことは一度もなかった。その2。

1行1行理解していくうちに、少しずつだが勉強の仕方がわかるようになっていった。

3年生の秋には五ツ木の模試で成績優秀者に名前が載るくらいにはなっていたので、それが少し自信を持たせてくれた。

エスカレーターで高校に入学した後は部活を再開した。

音楽に興味が出ていたので、ギター部に入った。

今で言えば軽音楽部みたいなものだ。塾の職員室においてあるギターは高1の時に買ってもらったモーリスのギターだ。

性格的にハマると四六時中そのことばかりやってしまう。当時はベットに横になりながら天井を見ながらずっとギターを触っていた。ずっとずっと。

やはり、こうなると勉強が疎かになる。中1リメンバーだ。

今度は部活を最後までやり切ると決めていたので途中で辞めることはしなかった。

毎月のお小遣いももらっていたが、高1で1000円だった。高校生にとっては少な過ぎたのでバイトを始めた。新聞配達。これだと校則の厳しい学校でも見つからずに金を稼げる。

配達員になった頃はまだ免許がなかったので、自転車の前カゴに大量の新聞を入れてフラフラしながら配った。

今のように電動の自転車なんてない頃だから、漕ぐのが本当に大変だった。雨の日なんて最悪だ。1軒1軒、雨に濡れないようにビニールに包んでポストに入れていく。

あさの4時から6時くらいまで2時間配達して、帰るとそこから1時間くらい朝勉した。その時は朝勉して俺エライ!くらいに思っていたが、毎日たかだか1時間くらい。高校の勉強に耐えうるはずもなく、成績は急降下していった。

阪神大震災はこの朝勉中に起こった。すべてのものが水平移動した。机を掴んだ自分は机と共に移動した。物理で物体に物体を乗せて動かす問題があるが、この体験からあの手の問題は得意になった。冗談。

気がつけば高3。周囲が少しずつ勉強モードになっていくのが分かった。クラスの中では志望校に関する話題が自然と増えていった。だけど、部活の引退(当時は3年の7月)もアルバイトもしていた俺にはそれがどこか他人事のように聞こえ、1年後に受験するという実感が持てずにいた。

6年も前に受けた受験の緊張感なんて忘れている。中高一貫の弊害はこれで、時間と共に受験に対する現実味、緊張感が失われていく。

秋口になって担任に呼ばれ面談室に行き、志望校を聞かれた。

祖母が鹿児島に住んでいたので、九大を受験しますと言ったら、「アホか、受かるわけない」と瞬殺された。アホすぎてアドバイスのしようも無かったのだろう。

あれは先生が悪いというより、どう考えても俺がアホすぎた。

九大は福岡だ。

関西圏の俺には、九州という括りがデカすぎて鹿児島→九州→国公立→九大と考えていたのだ。合格したら鹿児島に下宿して、九大に通うなどと言い出しそうだ。

今考えてもぞっとする。不合格になってよかった。不合格にしてくれた神様は見る目ある。

というわけで、断固として意思を曲げず九大を受験。偏差値は低かったが、アホ偏差値は高かった。

そのあとはC日程(当時)の大阪府立大学を受験し、こちらは合格した。航空宇宙という学科があったので受けたら奇跡的に受かった。だけど、旧帝大、旧帝大と言われていたので、大阪府大の価値も理解せずに、「だれが行くか」と府大を蹴った。

家から数駅先の大学だったので、近すぎて、憧れの大学という気がしなさ過ぎて行くのが嫌だった。運が良かっただけのラッキー合格だ。

そして、もちろん浪人。

(続く)