貧しさからの脱出。勉強して損をしたことは一度もなかった。その1。

先日、中学生に人生を一発逆転させたければ、大学受験までの6年間だと話した。

普段あまり自分の体験談などを生徒には話さないが、この6年間という時間を大切にしてもらいたいという気持ちを伝えたくて、つい話をしてしまった。

自分のことを話さない理由は簡単だ。

それはn=1だからだ。再現性に乏しく一般化し難いからだ。

自分の家は決して裕福ではなかった。

中学時代参考書を買う金が無かったので、駅前の本屋で立ち読みをしては内容を覚え、忘れないようにダッシュで家に走って帰り、すぐにメモをした。

こう切り出すと、教室では何人かがくすくすと笑っていた。(その反応が普通。今時、こんな生徒はなかなかないと思う。)

参考書を読み比べることをこの時期に覚えた。もし1冊買っても良いと言われてもそれぞれの参考書に良さがあり、きっとその1冊が絞れなかった。全部欲しかった。

俺は中学受験をして私立に進学していた。だけどそれは勉強が出来たからとかそういうことではなく、地元の中学が悪すぎたからだ。大阪の南の方が地元で、卒業式の日には暴走族が校庭を走り回り、卒業生が鉄パイプを持って学校の窓を割りに来るという中学だった。そこに進学させたなくなかった母の想いで私立受験をした。

毎晩のように父と母は金のことで喧嘩をしていた。身内の恥をさらすようで恥ずかしいが父はパチンコに入り浸り月に2桁単位で金を投じていた。ご飯を知らせるために、よくパチンコに父を呼びに行った。教育費を工面する為に母はパートに出かけた。その金で俺は学校へは通わせてもらった。口論の原因は俺のせいだと分かっていたから口喧嘩の声を聞くのは辛かった。

だから、参考書を買ってなんてとてもじゃないが、言えなかった。

自分の通う学校には制服があってよかったと思う。当時私服で通学の学校だったらきっと毎日同じ服を着て通学していたと思う。今自分が教える地元塾の生徒は私服登校なのでもしかすると同じような境遇の子はいるかもしれない。

高校はどこでも良いが、大学はダメだというのが祖父から教えてもらったことだった。祖父は商社マンで数年に一度しか会えなかったが、会うたびに父は祖父の功績を話してくれた。将来、成功するには勉強でのし上がるしかない。もっと言えば、今その為にできることは勉強をすることくらいだ。そんな風に思っていた。

父はいつも祖父のことを話し終えると自分が反面教師であることを冗談交じりに話した。パチンコにのめり込んでいたが、今思へば仕事でのストレスだったのかもしれない。仕事に対しては真面目で、パチンコと金のことを除けば立派で今でも尊敬している。

中学に入ってからの成績は芳しくなかった。学年人数は90人くらいで、常に下から3番目だった。そのくせ部活もしていた。

今となっては部活をしていたことなんて何の言い訳にもならないが、当時は部活を断って勉強に専念することが、這い上がるための唯一の道だと思い部活をやめた。

新しいスパイクを買ってもらった直後だったので、部活を辞めてしまえばこのスパイクはもう二度と履かれることは無いんだと思うと泣けてきた。これも母が働いた金で買ったものだと思うと余計に悲しくなった。成績が上がるまではこれを懺悔の塊として残しておこうと決めた。

退路を断ってからは、勉強に勤しんだ。

と書けばかっこいいがそんなかっこ良さはどこにもなかった。

教科書を読んでも全然頭に入って来ないし、理解もできない。アホな自分が惨めで仕方なかった。

ここで諦めてなるものかと、句読点まで読んで分からなければもう一度読んでの繰り返し。どうしても背景が分からなければ本屋に走る。その繰り返し。格闘に格闘を重ねてやっと1行分の意味が理解できた。また次の1行と、それが2行、3行とちょっとずつちょっとずつ、それを重ねていく。

勉強は最初が一番しんどい。自転車の漕ぎ出しのようにふらつくし、漕いでも漕いでも遅々として前に進まず、安定など夢のまた夢。

英語は壊滅的で、中2になって一般動詞とbe動詞の区別もついていなかったと言えば分かるように、相当な落ちこぼれだ。

考えれば、今自分が教えている子達の方がよっぽど真面目で優秀だ。

毎日机に向かっては涙を流した。当時は本当に苦しかったが、粘り強くやる事で物事が少しずつ前に進むということが、この時理解できたのは人生の収穫だった。

泣いていたのはもちろん、自分の馬鹿さ加減に呆れていたからだ。

(続く)