楽しいには2種類ある。まだ見ぬ世界を見せにいくために。

今日小学校の前を通った時に玉入れをしてたんだよ。チームに分かれてね。先生が笛を吹いた後、29、30、31!みたいに玉数を数えたんよ。そしたらみんな「イエーい!」って大きな声を出して喜びを爆発させて楽しんでた。

さて、今日の話はここ。

自分もその経験があるし、楽しかったことは覚えている。だけど、これが楽しかったからって今大人になっても続けているって人いる?いないよな?(決して玉入れの否定ではない。玉入れはあくまでも具体例。)

そう。

楽しいには2種類あるんだよ。

1つ目がただ楽しいっていう楽しさ。小学校の理科実験はどちらか言えばこの色が強い。だから多くの塾が理科実験を講習期間や体験授業として行なったりする。

これが理由で理科の先生になりましたとか、これが理由で物理の道に進みましたという人はほぼ聞いたことがない。(俺だけかもしれないけど。)だから、理科実験とは勉強っぽい冠をつけてるけどその中身は、勉強とは結びつかないお楽しみ、息抜き要素が多い。(ゼロとは言ってない。多い。)

そして、2つ目は攻略して行く楽しさ。

どうやったらこれをうまく引っ付けることができるんだろうとか、どうやったらタイムをもう少しあげられるんだろうとか。どうやったら打率が上がるんだろうとか。頭を使って攻略法を考えて行く楽しさ。勉強の本当の楽しさは後者だと思っている。

勉強ってどうしても受験とセットで考えるから、未来のためにとか。「テストで出るから仕方なくやる」とか、未来の「便益」ベースで考ること多い。事実、俺自身もそうやって話すこともある。

だけど、こうやって考える中で手に入れたものがいつか資産に変わるってことがある。

フローとストックってわかる?フローってのは流動的。すぐにどうこうって意味。一方でストックというのは固定的。ずっと残るって意味。

入試に向けての勉強ってフロー要素が強いけど、それを行う過程で「工夫」した取り組みとか、取り組んだ「熱量」って知らず知らずに実はストックに変換されていて、それが大人になっていざ何かを始めようとした時に、ふと財産となって顔を出す場面が出てくることがある。

何が言いたいかって?

受験に向けてフローとして消費しているように見えて、先々振り返った時にそれがストックとして残っているってこと。

こども目線だと、フローなんだからどうせ消えるんだし。やっても意味ねーって思うのは当然。だけど、それがストックとして残っている大人はストックについて話ができる。

これがわかるのは大人だけ。だから、その世界がまだ見えてない子供に対しては大人が率先して手引きしてあげるってのが筋だと思っている。

見えない世界を見せに行くというのは、一緒に手を引いてその世界を見に行くことなんだと思う。スポーツの世界で井上尚弥のコーチに親が付き、福原愛さんの隣に母親がいるように。

勉強の世界だけ、「自習性は大事よ。自分でやりなさい。自分のことなんだから。将来困るのはあんたよ。」というのを俺は違うと思っているし、それは手抜きだと思っている。少なくとも人によって手を離す時期の遅い早いはあるが、最近は放っておいても勝手にやるようになったわ。というところまでは勉強も一緒に伴走して良いと思う。それが中学生であってもだ。

子供の勉強にいつまで親が一緒に関われば良いですかという質問をもらうことがあるので書いてみたが、結論は「人によって違う」。

そして、離しても良い時期が来るまで伴奏するというのが俺の解答。